2021年12月20日
人間誰でも、生きていれば辛いことや苦しいことはある。孤独と悲しみに苛まれ、現実から逃げ出してしまいたいと思うこともあるだろう。かかる人生の問題に向き合うことをやめ、戦うことをやめ、自分で自分の人生を終えてしまうというのは果たして最善の方法なのだろうか?それによってすべての苦しみから解放され、きっと楽になるだろう――。そう考える気持ちは理解できる。自分もいっそ死んでしまいたい、と思ったことは過去に何度もある。
現在進行形でもそういう衝動に駆られることが全くないと言ったら嘘になる。自分がこの世に存在する意味などあるのだろうか、価値などないのではないか、もう必要とされていないのではないか・・・考えれば考えるほど答えなど見つからず、次第に追い詰められていく。
でもね。
それまで歩んできたこと、記してきたこと、すべてなくなってしまうのだ。消えてしまうのだ。人々の心の中に深い悲しみを刻みながらも、その記憶はあっという間に風化していく。どんなにいい人であろうと、人柄の良さがあろうと、仕事の実績があろうと、全く居なかったことになってしまう。それが世の中の常であるとはいえ、これは悔しいよ。これは哀しいよ。あまりにシャクじゃないか。僕は尊敬し敬愛する先輩、ともに苦しい時期を過ごした同志のような仲間、かけがえのない親族を見送ってきたけれど、ほんの数年が過ぎただけで、ほとんどの人が顧みることすらしないよ。それが、我が事のように悔しい。きれいな言葉ばかりを並べておきながら、居なくなった者に対しては興味も抱かないんだ。自分が自分として存在するためには、今、ここに、生きていなければ意味がない。証明するしかない。生を受けて何がしかの人生を歩んできたというのに、それがただの「無」であるなんて、世間は何と冷たいことだろう、何と無関心なのだろう。僕はこの世の中に対するそうした「怒り」のような感情を常に持ち続けている。苦しいよね、辛いよね、でも人生を投げ出すことだけは絶対にしてはいけないんだ。幸せなんて所詮はコインの裏と表、あぁ何て自分は不幸なんだろうと嘆いていたところにもし宝くじが当選して億の金を手にするとなって気持ちが少しでも変わるのなら、人間の幸せなんて所詮そんなものだ。今、自分が満たされているのか、満たされていないのか。足りているのか、足りていないのか。自分の不幸を嘆いているというのは、欲しいものが手に入らずに駄々をこねている我儘な子どもと変わりないんだ。人生を、もっと楽に考えようじゃないか。こうあるべきだ、こうでなくてはならないなんて生き方は無い。君は君らしく、君だけの人生を歩んでいいんだ。歩きながら、生きていることの小さな喜びを、時々見つけられればいいじゃないか。ふさぎ込んで考え込むのはただ自分を追い詰めるだけだよ。世間への恨み節を思い切り叫んで、どうにもならない自分に地団駄を踏んで、泣いて、泣いて――それからぐっすり眠れば、次の朝にはすっかり忘れているかも知れないんだ。人生なんて、いつになっても手探り状態の連続。笑っているほうがいいよ。
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